WILD  FRONTIER
 
 力の指輪を作った細工師たちをサウロンから守るため、エルフの上級王ギル=ガラドの命によりエルロンドは軍を率いて急ぎエレギオンへと出撃した。
 しかし遥かに強大なサウロンの軍勢の前に為す術も無く、エレギオンは荒廃し、作られた全ての指輪中最大の力を持つ、ナルヤ、ネンヤ、ヴィルヤと名付けられた三つの指輪を作ったケレブリンボオルも殺されてしまった。
 そしてエルロンドは逆に追われる身となり、オークどもの追撃により、次第に追い詰められていた。
 予てからギル=ガラドと共にエルロンドを畏怖していたサウロンは、エルロンドの捕囚を強く望み、召使のオークどもに命じていた。そのため主人の意思のまま、すべてのオークがエルロンドのみに襲い掛かってきた。
 他のエルフの戦士を殺しながら雲霞のごとく襲い来るオーク共を討ち払いエルロンドは後退を続けたが、疲れを知らぬエルフといえど多勢に無勢。すでに剣を持つ腕は重く、倒したオークの黒い血に濡れた鎧甲冑も動きを阻害し始めていた。
 ついに累々と倒れ臥した屍に足を取られ、一瞬躊躇したところに強力な一撃を脇に喰らい、エルロンドの意識は遠のいていった・・・・・・・
 
 
 酩酊しているかのような、けだるさと浮遊感の中、エルロンドは額に触れる軟らかな感触に気が付いた。
 それは暖かく滑らかで、懐かしさすら感じさせた。
・・これが話に聞く、マンドスの館か・・・
 死ぬことの無いエルフは、耐えようも無く傷ついたり疲れたりしたとき、その身体が再生されるまで、魂は至福の地にある『マンドスの館』のに留まるのだと聞いていた。
 そして、いつでも戻れるのだと ・・・
 自分は戻れるのだろうか・・・、エルロンドは薄い笑みを浮かべた。
 数え切れないほどのオークに襲われ、身体は切り裂かれてしまったに違いない。そんな肉体でも再生は叶うのかと。
 自身で選ぶ事を許されたエルフとしての生に迷いは無かったが、このような終わり方には悔いが残った。
 誰一人救い出す事ができなかったオスト=イン=エジルの細工師たち。美しかった王国、エレギオンは壊滅してしまった。
 及ばなかった自分の力を思い、エルロンドの頬に涙が一筋の痕を残した。
せめて1人でも多く、無事にリンドンまで辿り着いてくれれば・・・・そう願う。
自分に付き従った戦士も、エレギオンの民も。
エレギオン壊滅後、サウロンの標的はエルロンドのみとなっていたから、あるいは・・・。
そして自分の死によって、サウロンの進撃の手が少しでも鈍ればいい。
「ならば私の死も・・・少しは価値があるというものだな・・・・」
「何を言うのです!」
 予期せぬ応えに、遠のきかけていたエルロンドの意識は引き戻された。
 その声は怒気を含んでいた。
「貴方の価値は、決して死などに在りはしない。生きて、その存在全てがかけがいのない価値なのです。しっかりして下さい!エルロンド卿」
「お言葉は嬉しいが・・・貴公は・・・」
 重いまぶたを上げ、ぼんやりとした意識のまま頭をめぐらすと、光り輝くような黄色の髪が目の前にあった。エルロンドはその人物の胸に抱きかかえられる様にして居た。
 どうやら洞窟の中らしい。入り口は何本かの蔓に覆われていたが、その影に切り取られた暗い空に、星の瞬きが見える。
岩床が苔むして硬さを和らげていた。
「グロールフィンデルです。大丈夫。オークどもは撃破しましたゆえ」
「おお・・・金華公か。貴公の武勇は詩に多く歌われている・・・」
 古の都ゴンドリンの金華家の宗主、黄色い髪のグロールフィンデルの剛勇さは、中でもキリス・ソロナスでの尖塔の如く高くそびえる大岩の頂で戦われた、バルログとの果し合いが多く詩に歌われていた。
 彼はその戦いで、バルログと共に谷底に落ち、命を落としたのだった。
「マンドスの館から、こちらに戻られたばかりだというのに・・・また、このような事に・・・。どうか一刻も早く、この場を離れられよ」
「卿とご一緒ならば。喜んで」
 その応えに、エルロンドの口元に自嘲の笑みが浮かぶ。
「それは・・・難しいお誘いですな」
「では、卿がその気になられるまで、私もここにおります」
「馬鹿な事を!彼奴らの求めておるのは私だ。貴公お一人なら動き易い。それ故早く、ギル=ガラドの元へと!」
「しっ!静かに」
 グロールフィンデルの身体が緊張で硬くなるのが、触れている部分から伝わってきた。エルロンドも身を硬くして、耳をすました。
 微かなざわめきが、遠くから風に乗って聞こえてくる。それは不吉な正確さをもって近づいていた。
「おのれ・・・オークども!」
「さぁ、早く。今ならまだ間に合う」
「ごめん!」
 そう言うとグロールフィンデルは、エルロンドの身体を柔らかく苔むした岩にそっと預け、髪をなびかせて疾風のように走り去っていった。
「ご無事で・・・金華公・・・」
 これでいよいよ最期かと、確実に近づいてくるざわめきを待つ。不思議と恐怖は無かった。
 暫く後、忍んだ足音が近づき、再びグロールフィンデルが姿を現した。
「細工をしてきました。これで暫くは時を稼げます。今のうちに身を隠しましょう」
「・・・・何故!?」
 怒りとも安堵ともつかぬ感情で声が震える。
「貴方と共にと、言ったはずです」
 その言葉と共に力強い腕がエルロンドの身体を支え、立ち上がらせた。
「さあ、この奥にもう少し入り組んだ横穴があります。そこに隠れてやり過ごしましょう」
 オークどもが洞窟を見つけたのと、エルロンドたちが外から見えにくい岩の窪みに身を潜めたのとは、ほとんど同時だった。
 身の毛もよだつような耳障りな声を上げながら、オークどもは洞窟の中を探し回った。
 エルロンドとグロールフィンデルは狭い窪みの中でぴったりと身を寄せ合って、息を殺していた。
 オークどもの探索は長く執拗に、衰弱していたエルロンドの神経をいたぶるかのように続いていた。
 せめて彼だけは・・・そうエルロンドの心が囁いた。
 自分さえ出てゆけば、グロールフィンデルは無事にギル=ガラドの元に戻れると・・・・。
 無意識に動いた身体を、グロールフィンデルの腕が引きとめた。言葉にせず、合った目だけで語り合う。
 不意にエルロンドの身体を掴んでいた腕に力が入り、自分の方に引き寄せた。
「・・・・・・!」
 エルロンドの言葉は、声になる前にグロールフィンデルの唇によって摘み取られていた。暖かく軟らかい感触。
 では先刻の、懐かしさすら感じたものは『これ』だったのかと、エルロンドは間近に在る澄んだ瞳を見返した。
 見返す瞳には笑みが含まれていた。声を上げたら見つかりますよ、とその目は言っていた。そしてその笑みの陰に、真摯な光が見え隠れしている。
 気がつけばしっかりと抱きとめられ、併せた唇は深さを増していた。息苦しさに僅かに口を開くと、すかさず舌が侵入してきた。
「んん・・・・ん・・」
  くぐもった非難の声にお構いなく、侵入した舌はエルロンドの口内を勝手気ままに蹂躙してゆく。その動きが、エルロンドの思考に靄をかけていった。
 
 自分を捜すオークどものざわめきを遠くに聞きながら、エルロンドはグロールフィンデルの腕の中に居た。
 いつしかオークどもも去り、辺りに静けさが戻った事すら気付かなかったほど、グロールフィンデルから与えられる感覚に翻弄されていた。
 すでにオークの血に汚れた戦装束は解かれ、直接夜気に曝された肌にはグロールフィンデルのつけた痕が、紅にいくつも散っていた。
 その上を絹糸のような黄色の輝く髪が渦を巻いて被い、また新たな紅が散ってゆく。その繰り返しの中でエルロンドの意識は、また遠のいていった。
 
 次にエルロンドが見たのは、いくつもの花だった。洞窟の入り口を覆う蔓に縋るように咲く銀朱色の花。流れ込む白いあたたかな光の中、露を含んで光っていた。
 夜が明けたのだ。これで光を嫌うオークは暫くは動けないだろう。
 そんな事を考えて、エルロンドは自分が広い場所に寝かされている事に気付いた。
 苔むした岩床は軟らかく、心地よい。そこに素肌にマントを掛けただけの姿。狼狽えて身を起こすと、肌に直接髪が滑る感触に、顔が熱くなった。
「気がつかれましたか?」
 入り口から射す影とその声に、また顔が熱くなる。
「今、辺りを探ってきましたが、西の方には行けそうもありません。リンドンに戻るには、かなり大回りしないと。場合によっては霧ふり山脈沿いに・・・」
 返事の無いエルロンドに、状況を説明していたグロールフィンデルの表情が曇る。
「気分が・・・優れませんか?」
 触れようとする手から身を引いて、エルロンドは身体に巻きつけたマントを固く握り締めた。
「私の衣類は・・・どこに?」
「ここにあります。身に着けるのを、お手伝いしますよ」
「ひとりで結構!」
 衣類を取ろうと身体を動かすと、目の前の風景が、大きくぐらりと揺れた。
「危ないっ!」
 素早くグロールフィンデルの両腕が伸びて、エルロンドの身体を受け止めた。
「大丈夫ですか?無茶をしないで下さい。今の貴方は本調子ではない」
「誰のせいだ・・・・」
「え?」
「その原因のいくらかは、貴公のせいではないのか」
 抑えた口調で言いながらも、受け止めた腕から逃れようとするエルロンドを、グロールフィンデルはきつく抱きしめた。
「離せ!」
「否です。この腕を離したら、貴方はまた、一人で出て行こうとするに決まっている」
 さらに腕に力を込め、グロールフィンデルは言葉を続けた。
「私は貴方と共に居る。卿のお傍に在りたいのです。決して貴方を離したりはしない!」
「金華公・・・」
「グロールフィンデルです。そう御呼び下さい」
 差し出された心の熱さと激しさに、応える言葉を失って黙り込んでしまったエルロンドを、グロールフィンデルはそっと座らせた。
 その前に片膝をついて片手を胸に当てると、頭を垂れた。
「私は貴方のものです。エルロンド卿」
 
 
「考えてみれば・・・」
 戦装束を身に着け、すっかり身支度を整えたエルロンドは、ため息のように呟いた。
「私が今在るのも、まだ幼き我が父を、貴公が命を賭して護ってくれたおかげなのだな」
 その時の戦いで、グロールフィンデルは命をおとしたけれど・・・・・しかし。
 洞窟を出て、陽光の中に立つ。
「私は二度も、貴公に命を救われたのだ・・・・」
 そう言って自分を護るように並んで立つ、輝く黄色の髪をした彼に微笑みかけた。
 
 
-- End --